人間は他人を一回しか愛せないのか?
対談の中でまくねがおさんは「男が寂しさとどう向き合うか」を考えていく上で『宇多田ヒカル論』は有益だと述べている。
寂しさについて語るのは、男性には特に難しいかもしれない、と。
ダンディな「男の孤独」の話とも違っていて、かっこいいものでも、感傷的なナルシシズムを許すものでもない。
「もっと身も蓋もない、みっともない寂しさ」が、多くの男にはあるんじゃないか。
男性は職場や仕事の繋がりばかりになりがちで。そんな中で将来、寂しさがごまかしようもなくやってきたとき、落ち込みすぎたり、
暴発してしまったり、誰かのせいにしがちになる。
そうするのではなく、その寂しさにちゃんと向き合って、その時にこそ本当に優しく、幸せに生きられるように、いまのうちから準備をしておきたい。
男性は、根本的にそういう準備が足りない気がする。
男たちが、寂しさに向き合うための準備とは、どういうことなのか。
『宇多田ヒカル論』を読みながら考えると、何かヒントが見つかるんじゃないか。そう思いました。
これに対し、著者の杉田さんは自分の若いころの失恋や恋愛の体験を重ね、宇多田ヒカルの中にある
「人間は他人を1回しか(First Loveとしてしか)愛せないのではないか、離別して遠ざかってい事の中に実は愛があるのかもしれない」
という感覚にぞっとしたという。また、宇多田ヒカルの女性的な考え方を男性目線のロマン主義で回収していしまっているのではないか?
と自身の著書についても疑問を投げかけている。
続いてまくねがおさんも、確かに『宇多田ヒカル論』には、「どんな人でも、人が人を愛するのは最初だけで、あとはどんどん遠ざかっていかざるを得ない」といったモチーフがあると指摘した。
どんな人でも、愛する人を最初の一瞬しか愛することはできず、以降はその瞬間から遠ざかっていかざるを得ない。
あるひとりの人を好きになって気持ちを伝えて、仮にその気持ちが受け入れられて長く一緒に暮らし、どちらかが死ぬまで添い遂げたとしても。
やはり愛する一瞬は最初のそのときのみで、以降は同じようには愛せず、ずっと遠ざかるのみである。どんなに再び愛したいと思っても。
まくねがおさんは、『宇多田ヒカル論』の中の宇多田ヒカルの非人間的な感じ、よく分からない感情の部分にぐいぐい引き付けられ、自分と重ね合わせたという。
対談の最後では、男性・女性の限らず、トランスジェンダーに詳しい人の感想をぜひ聞きたいと述べ、忘れられない恋愛をしたことのある人、また「自分は人を愛せるのか?」と疑問に思っている人に是非お勧めしたいと締めくくった。
「男らしくない男」たちの会話だからこそ、世の男性たちに共感を呼んでいるこの対談連載。今後の連載にもますます目が離せなくなりそうだ。
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