エースが抜け、勢力増加を期待された若手の投手も軒並み二軍で調整。
それでも首位争いを続けるカープ。
結束する赤いユニフォームの中心に、二人の男の絆があった。
鯉がのぼる季節が終わっても好調なカープ。
昨季、広島は1勝に泣き、クライマックスシリーズ出場を逃がした。
オフにはエース前田健太がドジャースへと移籍をした。
穴埋め出来る補強は無くても首位を争い続ける秘訣を、広島の元監督、
達川光男氏が明かした。
「マエケン(前田)が抜け、ほとんどの評論家が広島を下位予想にする中、
私は優勝にしました。2月の沖縄キャンプ打ち上げの光景を見て、
雰囲気のよさを感じたからです。
キャンプの最後は参加者全員で円陣を作り、一本締めで終わるのですが、
普段はあまり喜怒哀楽を出さない緒方(孝市)監督が柔和な表情を浮かべ、
その両隣にベテランの黒田と新井が立っていました。
監督の隣には主力選手はいきたがらないもので、あの場所には若手選手が立つものです。
そこに二人がすっと寄っていった。大相撲の横綱の土俵入りで、横綱の両脇を固める太刀持ちと露払いに見えましたよ。
二人とも昨年、久々にカープに戻り、でも結果的にチームは4位に終わった。
『緒方監督に恥をかかせてしまった。今年は何とか男にしよう』という思いを感じます」
1996年、ドラフト2位で入団したエース、黒田博樹(41歳)と、2年後に
ドリフト6位で入団した新井貴浩(39歳)。1991年以来セ・リーグ最長の四半世紀もの間の、優勝から遠ざかる広島の低迷期。
それでもエースと主砲として牽引してきた。
黒田は大阪・上宮高では2番手投手で、進学した専修大は東都大学リーグ2部に在籍した。
1部へとあがったのは4年生の春からだった。
速球は150kmを計測したが、配球が単調で、痛打された。
プロ1年目の二軍戦では1イニングで10失点したこともあった。入団3年目までは負け数の方が勝ち数より多く、初の2ケタ勝利までは5年費やした。
新井も駒大時代、スカウトの目には留まらなかった。大学の先輩、野村謙二郎氏(前広島監督)の自宅を自ら訪れ、
スイングを見てもらって入団の推薦を得る、「コネ入団」だった。
二人とも入団当時は、何年間プロでやれるかわからない雑草戦士だったが、広島伝統の厳しい「愛のムチ」でしごかれても食らいつき、一流選手に這いあがった。
共に「カープに育ててもらった」という恩義は深い。
広島は1975年の初優勝以来、’80年代にかけて黄金時代を作ったが、’90年代後半からは万年Bクラス。苦しい時代を支えた投打の柱は、’07年オフに新井が阪神へ、その翌’08年に黒田がメジャーに挑戦。
主砲とエースがFA権を行使して退団したことにより、カープは大幅な戦力ダウンを余儀なくされた。
カープ優勝の2人の立役者の感動秘話は次ページから!!